卒業旅行(新潮社「第17回女による女のためのR-18文学賞」最終候補作)

新潮社「第17回女による女のためのR-18文学賞」最終候補作です。
公式サイトで2018年2月16日から3月22日頃まで公開されていました。

受賞は叶いませんでしたが、一度は新潮社のWebサイトに並べてもらった作品です。
家の庭に植え替えてささやかに咲かせておくほうがいいと思ったので、UPします。
自サイトでの公開については新潮社にも確認済みです。
公開されたときと同じ状態で、改稿はしていません。

卒業旅行

 小学2年生のとき、自分たちで夏祭りを作る行事があった。夏祭りといっても小学2年生のすることだから、毛糸を焼きそばに見たてて紙皿に乗せるとか、割りばし鉄砲で射的をするとか、そんな他愛のないものだ。
 わたしとやっちゃんは司会に抜擢された。たぶん二人とも勉強ができて賢かったから、担任が適当に選んだのだと思う。どのように司会進行するのか自分たちで考えることになっていたので、やっちゃんと一緒にセリフを考えて原稿用紙に書いていった。
 やっちゃんはあまり協力的ではなかった。それならわたしに任せてくれればいいのに、わたしの考えたセリフや原稿用紙の書き方に逐一口出しするという、実に面倒くさい男だった。
 しかし当日はちゃんと司会を務めてくれて、わたしが段取りを忘れたときにはフォローしてくれた。終わった後もわたしを責めることなく、飄々としていた。そんな姿がなぜかカッコいいと思ってしまったのだ。

 小学生の初恋なんて翌日には終わっていてもおかしくない。まさか社会人になってもやっちゃんに片想いしているとは思ってもみなかった。やっちゃんが声変わりする過程も、ひげが生える過程も、背が伸びる過程も、すべて見てきた。子どもの頃の面影を残しつつ、魅力ある男に成長している。途中で嫌いになることもなく、ここまで来てしまった。
 きょうもいつものファミレスで、向かい合ってハンバーグを食べている。
「結婚式はいつだっけ?」
「来年の4月」
「そうか、独身生活もあと半年か」
 やっちゃんが結婚するのではない。わたしがやっちゃんを諦めて、ほかの男と結婚することにしたのだ。我ながら矛盾がすごい。ほかに結婚相手がいるなら片想いじゃないでしょってみんな思うだろうけど、わたしはいまでも完全にやっちゃんに恋していて、叶わないとわかっていても好きで好きでしかたないのだ。
「いやほんと、もらい手があってよかったな」
 わたしがやっちゃんを好きだということは、やっちゃん自身も知っている。中学生のときから何度も告白して、そのたびにフラれてきた。
 はじめてフラれたときのことはよく覚えている。夕陽の差す教室で二人きりというシチュエーション。マンガやドラマなら間違いなく恋愛成就する舞台だ。やっちゃんのことが好きだから付き合ってほしいと告白したところ、5秒ぐらい間があって、
「ごめん、オレ、付き合うとかよくわかんないし」
 と言われた。それからも、告白したらフラれるの繰り返し。フラれるたびに多大なダメージを受けるにもかかわらず、もしかしたら気が変わって付き合ってくれるんじゃないかと思って、再び告白してしまうのだ。

 同じ高校を卒業したあと、わたしは京都の大学に進んで、やっちゃんは東京の大学に進んだ。大学時代も変わらずやっちゃんを想い続けていたのだが、わたしを恋人にしたいという珍奇な男が現れて、それがもうすぐ夫になる。いまのところは婚約者なのであるが、特にときめきを感じたわけではなく、だからといって嫌いというわけではなく、一緒にいて居心地がよかったのと、わたしのことを好きであるという理由で、結婚を決めてしまった。不毛な片想いを続けていても、やっちゃんがわたしの夫になる確率は限りなくゼロに近い。それなら若いうちにさっさと結婚してしまったほうがいい。やっぱり無理だったと後悔するにしても、若いうちのほうがつぶしがきくだろう。

 そもそもなぜやっちゃんがわたしの想いを拒み続けているかといえば、よくわからない。女の人に興味がないというわけでもなさそうだし、ほかに好きな女の人がいるというふうでもない。それでもわたしを恋人にするつもりはないということだ。そろそろ折れて付き合ってくれてもいいんじゃないかと思うが、こういう融通が利かないところも含めて好きなのだからしかたない。

 わたしもやっちゃんも大学卒業後は地元の静岡で就職した。ときどき会って、ごはんを食べている。しかしわたしは来年の春には仕事をやめて、婚約者のいる大阪で新生活をはじめる予定だ。
 それからもやっちゃんへの片想いが続くのかどうかはまだわからない。でも、会えなくなったら想いが薄れることだろう。事実、離れて暮らしていた大学時代はやっちゃんのことを考える頻度が減った。その隙に大学の同級生だった婚約者がアプローチしてきたので、付き合ってみるのもいいかと思って付き合ったというわけだ。だから結婚して離れることによって、わたしたちの関係は確実に変わる。やっちゃんにとっては厄介払いになるのかもしれない。しかしこのまま引き下がるのもさびしいので、ひとつ頼んでみようと思っていたことがあった。
「やっちゃん、一緒に旅行行かない?」
 明らかに無茶なお願いだ。だから勢いで言うしかないと思っていた。旅行に行くか行かないかの2択で、行くと言ってくれる確率が1%でもあるなら賭けるしかない。
「どこへ?」
 即座に断られると思っていたのに、やっちゃんは表情を変えずに意外な返事をした。
「え、決めてないけど……温泉とか……やっちゃんはどこに行きたい?」
「京都かな、久しぶりに行きたいし」
 わたしは頭が真っ白になって、水をひとくち飲んだ。これはOKという意味なのか。
「いつにする?」
 やっちゃんが手帳を出してスケジュールを確認しはじめた。これは現実なのだろうか。夢なら夢でもいいという気がしてきた。
「おまえ京都詳しいだろ?」
「う、うん」
 自分から誘ったくせに、ひどく動揺している。京都には大学時代4年間住んでいたので、詳しいのは間違いない。しかし、やっちゃんと一緒に行くとなると異世界のような気がしてくる。1時間半新幹線に乗ることを考えただけで不安だ。99%断られると思っていて、どこに行くのかも決めていなかった。オファーして断られるのと、オファーせずに諦めるのとでは、前者のほうがいいと思っての判断だ。
 でも、勝算がまったくなかったというと嘘になる。やっちゃんは気まぐれでわたしに優しくするのだ。小学校の夏祭りでわたしをフォローしてくれたのも、高校時代同じ部活に入ってくれたのも、大学時代年賀状を送ってくれたのも、いまこうしてときどき会ってくれるのも、「別にいいかな」と気が向くのだろう。好かれて無下にできない気持ちも多少はあるのかもしれない。だからわたしの突拍子もない旅行の誘いも、もしかしたら受け入れるのではないかと思っていた。
「おまえも仕事あるし、1泊だよな? 1日ぐらいなら休みとれるけど」
「そ、そうだね。もし金曜日休めるなら、金・土で行くと混んでなくていいかも」
 これは本当に行く流れだ。頭がパニックになっている。
「シングルの部屋にする? ツインの部屋でもいい?」
 一番気になっていることを聞いてしまった。
「何を期待してるんだ」
 やっちゃんは笑った。
「どっちでもいいよ。おまえに任せる」
 いっそのこと断られたほうが楽だったかもしれない。自分から提案したくせに、勝手なものだ。しかしやっちゃんが乗り気になっている以上、この波に乗るしかない。わたしもバッグから手帳を出して、予定を立てることにした。

 出発当日、朝8時集合だったのにわたしは4時に起きて7時には静岡駅にいた。わたしの持っている中で一番まともなワンピースを着ている。いっそのことやっちゃんが現れなければいいと思った。どうしてわたしはこんな賭けに勝ってしまったのか。うれしさと不安で胸がずきずきする。明日の夜には再びこの駅にやって来て、魔法が解けたように帰宅するのかと思うとさびしくて仕方がない。京都駅で現地集合にしたらよかっただろうか。静岡駅はあまりに身近すぎて、ここからすてきなドラマがはじまる気がしない。
 もうすぐ8時という頃に、やっちゃんの姿が見えた。なんだか恥ずかしくなって、気付かないふりをしてうつむく。
「おはよう」
 やっちゃんから声をかけてくれた。
「おはよう」
 二人で新幹線の改札を通って、ホームへ上がっていく。
「京都は、いつ以来?」
「大学受験のとき」
 墓穴だった。というより、すっかり忘れていた。わたしはやっちゃんと同じ大学を受けて、自分だけ合格したのである。家族も先生も大喜びで、やっちゃんのために入学辞退するような勇気はなかった。その大学で夫となる人と出会うのだから、人生わからない。
「そうなんだ」
 スルーするのも失礼かと思ってとりあえず相槌を打つと、遠くに新幹線が見えてきた。新幹線の頭が見えてから、ホームに停まるまでの間が好きだ。わたしが先に乗り込んで、やっちゃんを席に案内する。わたしが窓側で、やっちゃんが通路側だ。
 並んで座って気付いたけれど、こんなに接近して1時間半過ごすのははじめてである。だいたい隣の席になったことすらなかったではないか。席替えのたびにがっかりしていたのだから間違いない。緊張を悟られないようにわたしは窓の外を眺める。ひかり号は西に向かって動きはじめた。
「オレ、ポケモンやるから」
 やっちゃんはそう宣言して、ゲーム機を取り出す。恋人だったら怒るところだろうか。わたしは恋人ではないし、むしろガチガチだったので、ひとりでゲームをやってもらえるほうが気楽である。

 いつのまにかうつらうつらしていたようで、あっという間に京都駅に着いた。
 大学を卒業してからも、京都には何度か来ている。大阪に住む婚約者と会うため、京都で待ち合わせすることも多い。改札口で婚約者が待っていたらどうしようかとあり得ない想像を膨らませていたが、案の定いなかった。
「まずは下鴨神社に行きます」
 旅のプランはわたしに任されていた。事前にコースを説明しているので、おそらく承認はされているのだと思う。わたしの考えに逐一ダメ出ししていたやっちゃんも大人になり、何も言わなくなった。これはこれでちょっとさびしい。
 京都駅の近くのホテルに荷物を預けて、バス乗り場に向かう。どのバスに乗ればいいのか、だいたい知っている。
「さすが、よく知ってるな」
「一応住んでたから」
 大学時代の4年間はあっという間だった。同じ大学にやっちゃんがいたらどんな大学生活だっただろう。大学にはたくさん人がいたから、やっちゃんとは意外に疎遠になっていたのかもしれない。しかし少なくとも、婚約者と付き合うことはなかったはずだ。
 京都駅付近にはたくさんの中学生がいる。
「修学旅行生多いね」
「わたしたちもあんな感じだったのかな」
 わたしとやっちゃんも中学3年生のとき、修学旅行生として京都を訪れている。やっちゃんとは違うクラスだった。それがいま、二人で京都に来ているのだから不思議なものだ。なんだか信じられなくて、ふっと夢から覚めてしまいそうな気がしている。

 京都駅からバスに揺られること30分ほど。下鴨神社はわたしの一押しである。はじめて来たのは大学に入ってからだ。糺の森のスケールに圧倒されて、何度も足を運んでいる。
 二人でお参りをして、水みくじを引いた。下鴨神社の水みくじは、水につけると文字が浮かび上がるというものだ。わたしもやっちゃんも末吉で、微妙だねと言って笑った。こんな普通の観光がとても楽しい。もともとやっちゃんはあまり口数が多くないほうだが、発しているオーラで機嫌が良いのか悪いのかわかる。きょうはそれなりに機嫌が良さそうである。
「晴れててよかった」
「そうだな」
 雨は雨で風情があっていいものだが、旅行のときはなるべく晴れていたほうがいい。傘があると荷物が増えるのでいいことがない。
 糺の森を抜けて、出町ふたばの豆餅を買いに行く。混んでいるだろうと思っていたが、それほどでもなかった。同世代ぐらいのカップルが仲良さそうに並んでいるのを見て、わたしたちはどんなふうに見えるのだろうと思ってしまう。
 買った豆餅は近くの鴨川デルタで食べた。非常にありがちなコースである。鴨川というとカップルが等間隔で座っていることで知られているが、まだ昼なので人はまばらだ。
 川の流れを見ていると癒される。わたしもやっちゃんも黙ったままぼーっとしていた。いつもなら会社でパソコンに向かっている時間に、好きな人と鴨川を眺めている。現実感がなくて、知らないうちに魂が抜けていきそうだ。

 この旅行を計画して、わたしがやっちゃんのことを何も知らないという事実に気付いてしまった。一緒に旅行するためには、自分と相手の趣味嗜好、金銭感覚、体力の有無などをすり合わせて計画を立てなくてはならない。たとえば移動手段ひとつとっても、2kmぐらいなら歩くのか、公共交通機関を使うのか、タクシーに乗るのか、人によって価値観は異なる。家族や恋人なら相手のことを知っているので特に問題ないだろうが、わたしたちのような微妙な関係の二人が旅行するのは非常に難しい。
 何を食べるかというのも悩みどころだ。いつも地元のファミレスでごはんを食べていたが、それは地元にファミレスしかないからで、選択肢が増えると何を食べていいのかわからなくなる。すでにお昼を過ぎていたのでごはんを食べようということになったが、どこのお店に入ればいいのかわからない。結局無難にうどんを食べることにしたが、もっと食べるべきものがあったのではないかと思ってしまう。

 午後一番に訪れたのは定番中の定番、清水寺である。わたしが京都に住んでいた頃、地元出身の人におすすめの観光スポットを聞いたところ、「なんだかんだで清水寺」という回答を得たのだった。
 清水坂は修学旅行生であふれている。
「修学旅行の班別行動で清水寺来た?」
「いや、オレ、あんまり覚えてない。金閣寺は見たような気がするんだけど」
 わたしもどこに行ったのか、忘れつつある。
「中学生のときに京都に来ても、よくわかんないよな」
 それはわたしも同感である。いまも京都の良さがわかっているとは言いがたいが、少なくとも10代の頃よりはわかっているつもりだ。
「修学旅行もそうだけど、学校行事が好きじゃなかった」
 わたしは小学校から高校にかけて、ほとんど友達がいなかった。コミュニケーションが苦手という点に加え、勉強ができるという理由で敬遠されていた節もある。女子のグループに入っていけず、ひとりで読書をしていた。そんな学校生活の楽しみは、やっちゃんに会うことだった。クラスが違っても、廊下で会えばいくつか言葉を交わしていた。
 やっちゃんもあまり友達がいないタイプだった。それでも一匹狼のごとく、堂々と生きているところに憧れていた。
 成績の良いやっちゃんと釣り合う存在でいたくて、勉強に励んだ。それでやっちゃんの成績を追い越していたのだから笑えない。
 わたしの学校生活の思い出にはいつもやっちゃんがいる。やっちゃんにとって、わたしはどんな存在だったのだろうか。
「オレも学校楽しくなかったな。あんまり思い出したくない」
「わたしはやっちゃんがいたから学校に通ってたようなものだよ」
「おまえは中学ぐらいから変わってない気がする」
 やっちゃんがわたしの過去に言及してくれたことがうれしい。内容も納得できるものである。わたしは一貫してやっちゃんのことが好きなのだから、やっちゃんから見たわたしが変わっていないのはある意味当然のことだ。

 久しぶりに訪れた清水寺は思ったより見どころが多かった。大学時代も含めて何度か来ているはずなのに、はじめて来たような気がする。やっちゃんも説明が書かれた看板を熱心に読んでいた。何もわかっちゃいないだろう中学生たちも風景のひとつである。地味な女子を見ると自分を見ているようで、思わず応援したくなってしまった。

 次に向かったのは烏丸御池の京都国際マンガミュージアムである。多少なりともマンガを読んだことのある人なら、確実に楽しめる場所だ。やっちゃんと二人だと会話に詰まりそうなので、こういう場所なら各自で楽しむことができるだろうという考えだった。
 最初は二人で「これ懐かしいね」などと言っていたものの、途中から個別行動になって、わたしもやっちゃんもマンガを読むのに没頭していた。

 18時の閉館近くまでマンガを読んだのち、地下鉄で京都駅近くのホテルに移動した。わたしが予約したのはツインの部屋である。やっちゃんはわたしに任せると言ってくれたが、シングルを選ぶと思っていたのかもしれない。しかしここで思い切っておかないと、絶対に後悔すると思ったのだ。頭の中でモヤモヤと言い訳を考えていたが、やっちゃんは同じ部屋だと知っても何も言わなかった。
 部屋のドアを開けてはじめて、
「広い部屋だね」
 と感想を述べた。
「よかった」
 ひとつひとつのベッドも大きくて、たしかにとてもいい部屋だった。カップルで泊まるのにはぴったりだろう。わたしたちはカップルじゃないのだけれど。

 京都駅近くの居酒屋で晩ご飯を食べた。一緒に飲んだことは何度かあるものの、このあと同じ部屋で寝ると思うとドキドキする。無茶なことをしたと思う一方、やっぱりうれしくて、乾杯のときは「よくやった」と自分をねぎらった。
「おまえと二人で京都に来るとは思わなかった」
 この旅の本質にはじめて触れられた気がしてドキッとする。
「わたしもだよ」
 好きな人と京都に来ている。これ以上ない幸せのはずなのに、相手はわたしを好きではない。やっちゃんはなぜ一緒に来たのだろうか。
「どうして来てくれたの?」
 聞かないほうがいいかと思ったけれど、聞きたい気持ちが勝った。
「なんとなく」
 そんな感じであやふやにしておくしかないだろう。万が一にもわたしのことが好きだから、なんて展開はないはずだ。しかしやっちゃんは少し黙って、口を開いた。
「でも、これが最後かなと思って」
 目の奥にじわっと涙が溜まる感覚があったので、あわてて上を向く。長年自分にくっついてきた幼なじみが、もうすぐ結婚して遠くに行ってしまうという認識は持っていてくれたらしい。それがやっちゃんにとって寂しいとかうれしいとかいう感情はどうでもいい。やっちゃんの歴史にわたしが存在したという事実が確認できた。
「いままでありがとう」
 涙がこぼれてしまった。
「なんだよ、縁起でもない」
 やっちゃんは笑ったけれど、わたしにとっては間違いなく本心だった。わたしの恋は叶わなかったけれど、こうして一緒に旅行できたのはひとつの成果だ。
「小学2年生のとき、学校の行事で夏祭りしたの覚えてる?」
「ほとんど覚えてないけど……おまえと司会したんだっけ?」
 わたしの人生の転機はあの夏祭りだった。やっちゃんが覚えていてくれてよかった。
「あれから、長い付き合いだなって思ったの」
 高校生のとき、同じクラスの女の子から「あなたたちって長年連れ添った夫婦みたいね」と言われたことがある。わたしたちの仲が悪くないように見えていることがわかって、安心した。調子に乗ったわたしは、その直後にも告白してフラれた。
 わたしはずっとやっちゃんのことが好きだったけれど、一度も両想いにならなかった。それがわたしたちの歴史のすべてだ。
「来年には人妻だもんな。なんだか不思議だよ」
 人妻という響きが面白くて、笑ってしまう。
「結婚式、オレは呼ばれないよね?」
 わたしはうなずく。
「身内だけでやるから」
 いずれにしてもやっちゃんを招くつもりはなかった。やっちゃんが友達だったら、呼ぶ可能性もあったのかもしれない。でもわたしにとってやっちゃんは友達ではなくて、想いを寄せる異性である。そんな相手を結婚式に呼ぶわけにはいかないだろう。そして今夜、ますます結婚式に呼べない理由を作ろうとしている。

 ホテルの部屋に戻り、順番にシャワーを浴びて、着替えて、歯を磨く。こんな日常生活を共にするのも新鮮だ。どうしても気を遣うところがあって、シングルの部屋にしたらよかったかもしれないと、ほんのちょっとだけ後悔する。
 やっちゃんはすでに寝る支度を済ませて、ベッドに横になっていた。このまま黙っていたらやっちゃんは普通に寝てしまう。言わないで後悔するぐらいなら、言って後悔したほうがいい。これまで何度も告白してきたわたしだけど、いま言おうとしていることはさすがに躊躇する。夜、ホテルの部屋に二人きり、TPOだけは完璧だ。ここで言わなかったらもう二度とチャンスなんてない。わたしはポーチに忍ばせておいた小さな包みを手の中に握って、やっちゃんのベッドの脇に立った。
「やっちゃんと寝たい」
 あまりに緊張したせいで声がかすれてしまった。それでもわたしが意味することは伝わっただろう。やっちゃんは体を起こしてわたしを見た。
「おまえはいつも思いつめたような顔で言うよな。告白されるときも『あ、来るな』って、いつもわかる」
 まったくそのとおりだ。実にわかりやすい指摘である。
「オレだって毎回断ろうって決めてるわけじゃないんだ。おまえに告白されて、そのたびに考えて、オレには面倒見られないなって思って、断ってきた」
 やっちゃんの本音を聞くのははじめてで、すごくびっくりした。好きとか嫌いじゃなくて、面倒を見られないと思われていたらしい。
「旅行に行こうって言われたときから、こうなるだろうとは思ってた。でも、もしかしたら何もないかもしれないし、言われてから考えるつもりだった」
 それで、答えはどっちなのか。ダメなら早くダメって言ってほしい。断られたらとりあえず部屋を出ようと思い、どっちに転んでもいいように部屋の照明を落とす。やっちゃんが黙って考えていた時間は、おそらく10秒ぐらい。
「言っとくけど、オレ、自信ないぞ」
 やっちゃんがわたしを抱き寄せた。信じられなかった。やっちゃんは考えた結果、わたしを抱くほうを選んだのだ。
「わたしだって」
 そう言うのが精いっぱいだった。胸が詰まって言葉が出てこない。手に握っていたコンドームを枕の横に置いて、わたしもやっちゃんに抱きついた。体温が生々しく伝わってきて、息ができないほど興奮している。ここで呼吸が止まったら念願が叶わないので、なんとか空気を吸い込む。するとやっちゃんが唇を重ねてきて、頭の中で「嘘でしょ?」と思いながら舌を絡める。まさかキスというオプションまで付いてくるとは。わたしはこのままベッドの上で死んでしまうのではないかと思った。
 やっちゃんがわたしの着ているものを脱がしていく。肩に触れられただけで感じてしまい、鳥肌が立つ。わたしとやっちゃんが触れ合うのは、小学校のフォークダンス以来ではないか。
 わたしはやっちゃんが童貞だと勝手に思い込んでいたが、思いのほか落ち着いていて動作がよどみない。自信がないというのは、経験があったうえでの発言かもしれない。付き合っていた人、あるいは付き合っている人がいるのだろうか。わたしはその見えない相手に嫉妬する。しかしこうして抱かれている現実に、安堵もした。いまこの瞬間だけは、やっちゃんがわたしのことだけを考えているはずだ。小学2年生のわたしに伝えたい。あなたは一晩だけ、やっちゃんを手に入れることができると。
 やっちゃんの固くなっている部分がわたしの太ももに当たって、びっくりしてしまった。この期に及んでも、わたし相手に起たないんじゃないかと思っていた。わたしにこれを受け入れるチャンスが巡ってきたことが、やっぱり信じられない。
「アキ」
 わたしは耳を疑った。いや、何も驚くことはない。アキはわたしの名前である。やっちゃんはいつからか、わたしのことを「おまえ」と呼んできた。婚約者や数少ない友達はわたしを「アキちゃん」と呼ぶため、アキと呼ぶのは家族ぐらいしかいない。
「やっちゃん」
 やっちゃんをやっちゃんと呼ぶのも、ごく一部の身内だけだろう。やっちゃんという呼び名はいかにも子どもっぽいので、途中で変えようと思ったこともある。でもやっぱりわたしにとって、やっちゃんはやっちゃんだった。
「いくよ」
 やっちゃんとひとつになった瞬間、感動して涙があふれてきた。相当濡れていたようで、すんなり収まった。パズルの最後のピースがはまったような達成感が湧いてくる。
「大丈夫? 痛くない?」
 言われてはじめてそっちの可能性があったことに気付いた。いまさら軌道修正するような余裕はないので、本当のことを言う。
「すごく気持ちいい」
 そこには肉体的な快感だけでなく、精神的な安らぎもある。満ち足りた思いまで挿入されたような、じんわりした感覚が体じゅうを駆け巡った。
 やっちゃんはいったん腰を引いて、再びわたしの奥深くに沈む。入れられたというよりは、埋められたという表現のほうがしっくりくるかもしれない。やっちゃんが腰を動かす速度が徐々に速くなる。やっちゃんの先端の出っ張りが、わたしの内側のひだをかき回す。薄い膜を隔ててもその感覚が伝わるぐらい敏感になっていて、わたしは声にならない声を上げ続けていた。
「アキ」
 やっちゃんがわたしの名前をもう一度呼んで、キスしてくれた。快感と感激で呼吸ができず、苦しい。わたしがここで死んだらどうやって遺体を静岡まで運ぶのかな、なんてくだらないことを考えた。やっちゃんに抱かれて死ぬなら本望だ。
 息遣いや動きから察するに、やっちゃんはそろそろイキそうらしい。わたしの中で果てるやっちゃんを感じるチャンスを逃してはならない。自分の内側に意識を集中させてそのときを待つ。
「うっ」
 小さなうめき声とともに、わたしの中に埋まっているものがかすかに跳ねるのがわかった。同時にわたしも力を抜いて、高みに達する。フォークダンスから何段階すっ飛ばしたのだろう。二人そろって呼吸が乱れているのがうれしくて恥ずかしい。やっちゃんはすぐに体を起こして、後処理をはじめた。

 わたしが再びシャワーを浴びて戻ると、やっちゃんは布団をかけて寝ていた。眠っているかどうかは知らないが、無理に話しかけることもない。本当はやっちゃんのベッドに入って抱きつきたいけれど、恋人でないわたしにその権利はないだろう。目標は達成したので、素直に隣のベッドにもぐりこむ。興奮して眠れないかと思っていたけれど、朝早かったせいもあってすぐに眠りに落ちた。

 翌朝、目を覚ました瞬間にわたしは自分の置かれた状況を思い出して、頬が緩むのを抑えられなかった。隣のベッドにはやっちゃんが寝ている。そしてなにより下腹部に鈍い違和感があって、昨夜のことは夢ではなかったと確信した。後悔なんてひとつもない。窓を開けて「わたしは小学校の頃から片想いの相手とセックスしました!」と大声で報告したいほどうれしかった。
 それにしても信じられない。わたしがやっちゃんに抱かれたという事実より、やっちゃんがわたしを抱いたという事実があり得ない。どんな顔して起きてくるのだろう。きっと、何事もなかったような顔をしているはずだ。ちょっとぐらい動揺していたほうが面白いんだけど。

 やっちゃんが起きる前に身じたくを済ませることにした。洗面台に立つと、いつもと変わらないわたしの顔が鏡に映る。わたしの容姿はいたって普通、あるいはやや下のほうである。もしもわたしが文句ない美人だったら、やっちゃんの恋人になれたのではないかとよく考えていた。しかし昨夜、やっちゃんはわたしを抱く気になったのだ。そう考えると自分の顔も悪くない気がしてきて、いつもより丁寧に化粧をする。
 起きてしばらくは喜びに浮かれていたものの、今夜静岡に帰るということを思い出したら気持ちがずーんと沈むのがわかった。気を紛らわすためにテレビをつける。
「おはよう」
 やっちゃんが目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、そろそろ起きようと思ってた」
 やはり昨夜のことはなかったかのようなふるまいである。寝起きのやっちゃんを見るのはもちろんはじめてだ。もしもわたしがやっちゃんのお嫁さんになれたら、毎朝この姿を見られたのだろう。とはいえ、特筆すべき点はない、普通の寝起き姿だった。

 ホテルの朝食バイキングはなぜこんなにワクワクするのだろう。普通のバイキングよりもずっと楽しい。和食も洋食も魅力的で、食べたいものをトレイにたくさん並べる。
「朝からそんなによく食べるな」
「うん、なんだかお腹が空いてて……」
 と言ったとたん、昨夜のことが思い出されて頬が緩んでしまった。恋人同士なら見つめ合ってニコニコするところだろうか。やっちゃんの様子をうかがったけれど、顔色ひとつ変わらない。しかしわたしも素知らぬ顔で別の男と結婚しようとしているので、人のことは言えない。
 やっちゃんの朝食はパンと卵とベーコンというような、スタンダードな洋食スタイルだった。一緒に朝食をとるのもはじめてのことなので、テンションが上がってしまう。
「楽しそうだな」
 やっちゃんがわたしの様子を見て言う。
「うん」
 長年の夢が叶ったのだ。楽しくないほうがおかしい。
「安心したよ」
 これは昨夜のできごとをにおわせているのだろうか。大声で笑いたい気持ちだったが、それでは怪しい人なのでぐっとこらえる。
「アキって呼ばれたの、うれしかった」
 黙っていられなくて、一番うれしかったことを伝えた。やっちゃんはうつむいたが、表情が緩んでいるのがわかる。
「オレはそこが一番恥ずかしかった」
 照れるやっちゃんなんて、そうそう見られるものではない。こっちまでくすぐったい気持ちになってしまう。

 ホテルをチェックアウトして、伏見稲荷大社に移動した。千本鳥居に足を踏み入れると、異世界に紛れ込んでしまったようで気が遠くなる。元の世界に戻れるかどうか不安になるのだ。
 昨夜の一件もあって、自分のいる場所が現実なのか夢なのかわからなくなってきている。京都という土地柄がそうさせているのかもしれない。やっちゃんとは別に婚約者がいるという状況が、まるで嘘みたいに思えてくる。
 事実、伏見稲荷大社は外国人観光客が多く、外国語が飛び交っている。わたしたちのほうが海外旅行に来たみたいだ。
 やっちゃんは鳥居の裏に書いてある奉納者をチェックしていた。全国各地の企業や個人の名前が書いてあるので、たしかに面白い。
「オレもいつか奉納しようかな」
「そしたら見に来るよ」
 やっちゃんの名前が書いた鳥居が並んでいるところを想像する。将来それを見てきょうのことを思い出すのかな、と思ったらまたせつなくなってしまった。

 京阪電車に乗って、京都競馬場に移動する。修学旅行では絶対に来ない場所だろう。二人とも競馬好きなのに、一緒に競馬場に来るのははじめてだ。わたしは父親の影響で、子どもの頃から競馬を見ていた。やっちゃんが競馬好きになったきっかけはよく知らない。高校ぐらいから競馬の話をしていた気がする。
 これまで訪れた競馬場の中で、わたしは京都競馬場がもっとも好きだ。パドックもコースもとても見やすくて、競馬を楽しむことができる。大学時代、秋になると毎週のように来ていた。競馬好きといっても予想が当たらないため、あまり馬券は買わないようにしている。レースを見ているだけで十分楽しい。一方やっちゃんは馬券もしっかり買うタイプで、ちょこちょこ当ててわたしにアイスをおごってくれた。
 京都競馬場にはカップルや家族連れもたくさん来ている。大学生ぐらいのグループを見ると、数年前のわたしたちを思い出して懐かしくなる。あの頃一緒に来ていた仲間たちも、就職や進学でばらばらになった。
 来場者たちにそれぞれのドラマがあると思うと、気が遠くなる。この人たちと同じ日に京都競馬場を訪れているということに、運命めいたものを感じてしまう。
「おまえは馬券買わないの?」
「当たらないから」
「賢明だな」
 やっちゃんに笑われてしまった。でも、ここで何も買わないのはたしかにもったいない。当たってもはずれてもいい思い出になるではないか。そう思い直し、メインレースを真面目に予想することにした。誕生日の数字や馬の名前で適当に買うようなことはしない。予想するときにはちゃんと理由を付けて買いたいのだ。それで当たっていないのだから、予想方法が根本的に間違っているのだろう。
 塗ったマークシートとお金を自動発売機に入れて、馬券を買った。やっちゃんも同じレースの馬券を買ったので、見せ合う。
「おまえの買った馬券はじめて見たけど、買い方はちゃんとしてるな」
 そう、買い方のセオリーだけはよくわかっているのだ。やっちゃんも似たような買い方をしていた。
 そしてはじまったメインレース。これほど手に汗握るレースははじめてである。わたしの応援している馬は1枠2番。追い込み馬なので、スタートはゆっくりめ。レース中盤で上がってきたときにはワクワクした。直線では大声を出して応援したが、結局届かず4着という渋い結果に。やっちゃんも外していて、お互い苦笑するしかなかった。

 京阪と近鉄を乗り継いで、京都駅に戻る。競馬で大勝ちしたら高いものを食べようと言っていたが、やっちゃんはそこそこの勝ち、わたしはそこそこの負けだった。一応京都らしいものを食べようということで、地下街で東洋亭のハンバーグを食べることにする。旅が終わりに近づいているのを感じて、胸が苦しい。

 最後に京都駅前にある京都タワーの展望室に上ってみた。すっかり日が暮れていて、夜景が美しい。夜景を見るとなぜか涙が出てしまう。たとえ一緒にいるのがやっちゃんじゃなくても、わたしは泣いていたと思う。
「ごめん、夜景を見ると涙が出る体質なの」
 やっちゃんに心配させたくなくて、自分から伝えておく。
「そうか」
 少し間を置いて、やっちゃんはつぶやくように言った。
「おまえと京都に来てよかった」
 またやっちゃんが気まぐれの優しさを発揮している。そんなことを言われたら涙が止まらなくなるではないか。わたしはずっと、やっちゃんは楽しいのだろうかと気を揉んでいたのだ。足の力が抜けてしまい、手すりを持ったまましゃがみこむ。
「そう言ってもらえて、うれしい」
 我ながら泣きすぎだ。タオルハンカチで必死に涙を拭う。やっちゃんはわたしが立てなくなったことに気付いたようで、腕をつかんで立たせてくれた。
「ちょっと座ろうか」
 近くのベンチに並んで座る。
「オレがいなかったら、おまえはもっと幸せだったんじゃないかって思うことがあるよ」
 そんなことあるわけないって言おうとしたけれど、可能性は否定できない。わたしは子どもの頃からいままで、やっちゃんを心の支えに生きてきた。これが一番幸せだったかどうかなんて、だれにもわからない。
「今回の旅行も、すごくいろいろ考えて、気を遣ってくれたんだろうなって思う」
 やっちゃんがそう思ってくれただけで、わたしは大満足だ。わたしにとって何が一番印象に残っているかといえば、もちろん昨夜の交わりなのだけど、決してそこだけが重要なのではない。二人で過ごした時間すべてが尊かった。
「いままでありがとな」
 やっちゃんがきのうのわたしと同じことを言った。不思議と涙は出なくて、わたしのこれまでの人生がすべて報われた気がした。

 京都駅でお土産を買って、新幹線ホームに向かう。帰りたくないけれど、帰らなくてはならない。わたしが帰らないと駄々をこねても、やっちゃんはひとりで新幹線に乗って日常に戻るのだろう。わたしもやっちゃんの日常にいたかった。
 迫ってくる新幹線の光が見えると、いつもならワクワクするのに、いまはどんよりするばかりである。わたしがやっちゃんのそばにいられるのは、あと1時間半。この新幹線が静岡に着いたら、別々の道を歩き出すことになる。
 新幹線に乗ってしばらくはぽつぽつ会話をしていたものの、すぐにやっちゃんは寝てしまった。わたしは何もすることがなく、外の景色を眺めていた。駅の周辺以外は明かりもまばらで、時折コンビニやスーパーの看板が見える。
 車窓を眺めながら、いろんなことを考えた。わたしがほかの男と婚約しないでやっちゃんのことを想い続けていたら、いつかはチャンスがあったのだろうか。しかし今回の旅行はわたしが結婚直前という前提があって叶ったものである。将来のことを考えなくていいからこそ、やっちゃんはわたしを抱いたのかもしれない。むしろそんなことするやっちゃんは、ひどい男なのではないか。しかし抱いてほしいと言ったのはわたしのほうだ。たとえ一度だけでも、好きな人と結ばれて幸せだった。
 眠っているやっちゃんの手が無防備に投げ出されているのを見て、手を伸ばしてみた。でもやっぱり触れる勇気はなくて、手を引っ込める。この手を握って離さない覚悟があれば、結果は変わっていたのだろうか。
 答えの出ないことをぐるぐると考えているうちに、やっちゃんが目を覚ました。
「いまどこ?」
「浜松過ぎたところ」
 京都方面から帰ってくるとき、浜松を過ぎると「もうすぐ静岡だ」とホッとする。しかしきょうだけは、浜松を恨めしく感じてしまった。

 静岡駅に着いて、新幹線ホームの階段を下る。もう泣きそうだったけれど、必死にこらえた。自動改札にきっぷを通して、コンコースに出る。
「ありがとう、楽しかった」
 お世辞を言うような人ではないから、本当に楽しんでくれたのだろう。
「わたしも、ありがとう」
 いままでずっと、わたしの憧れの人でいてくれたことに感謝している。
「じゃ」
「待って」
 きっとやっちゃんには二度と会えない。結婚までには半年あるけれど、気楽にごはんを食べる間柄にはもう戻れない。だから最後に言うことは決まっている。
「やっちゃんのことが好き」
 何度目の告白だろう。当然涙はあふれている。きっと思いつめた表情をしているのだろう。きのう言われたばかりなのに。でも、やっちゃんから目を離してはいけない。わたしと向き合う最後のやっちゃんになるかもしれないから。やっちゃんは少し笑ってうなずくと、わたしの手を取って軽く握った。
「幸せになれよ」
 わたしは目を固くつぶってうなずいた。何も言うことなんてない。やっちゃんがわたしの面倒を見る必要はないのだから、フラれるに決まっている。だけどどこかで、望みがあると思っていたのかもしれない。
「じゃあな」
 やっちゃんは手を放し、背中を向けて去っていく。わたしがそのまま眺めていると、一度だけ振り向いて手を振ってくれた。わたしも無理やり笑って手を振った。その後もやっちゃんの姿を目で追っていたが、しばらくすると見えなくなった。
 わたしはひざから崩れて泣き叫びたい気分だったが、夜の静岡駅は意外に人が多い。泣いているわたしを見て見ぬふりして通り過ぎていく。わたしの一世一代の恋が終わったことなんて、きっとささいなことなのだ。泣き顔を両手で隠すように覆うと、涙と脂でベタベタしていた。

 *

 最後の失恋から10年が経った。わたしは子育て中の専業主婦で、平凡に暮らしている。やっちゃんとはあれから会っていない。8年ぐらい前にメールを送ってみたけれど、アドレスが変わったらしくて届かなかった。
 すごく失敗したと思うのは、わたしが住んでいるのが関西だということだ。大阪と京都は近すぎる。京都駅に行くたび、あの夜のことを思い出して、下半身がじわっと疼く。もちろん夫は何があったか知らないし、子どもにだって言うことはない。墓場までひっそり持っていくのだろう。
 やっちゃんは月に数回のペースで夢に出てきてわたしの心を乱す。やっちゃんの夢にもわたしが登場することがあるのだろうか。仲が良かったわけでもない同級生が夢に出てくることもあるし、1年に一度ぐらいはわたしの夢を見るのかもしれない。たとえ5年に一度でもいい。わたしの存在を思い出すことがあったら、それだけでいい。

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